中学受験歴史「奈良時代(1)」聖武天皇と仏教

社会
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飛鳥時代から奈良時代に突入します。元明天皇が平城京に都を移したことで奈良時代がスタートします。今回注目するのは聖武天皇の政治です。

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「聖武天皇と仏教」基本問題

:次の年表を見て、後の各問いに答えよ。

年代 できごと
708
710
743
752
769
( a )という貨幣がつくられる。・・・・・・・・A
都が( b )にうつされる。・・・・・・・・・・・B
口分田の不足を補うため( c )が出される。・・・C
大仏開眼の儀式が行われる。・・・・・・・・・・・・D
宇佐八幡宮神託事件がおこる。・・・・・・・・・・・E

(1)年表中のAで、708年につくられた貨幣( a )を何というか。

(2)年表中のBで、( b )に入る都の名称を答えよ。また、この都は次のうちどの都市にならってつくられたか。次の中から1つ選び、記号で答えよ。
ア 北京   イ 西安   ウ 南京   エ 長安   オ 大都

(3)年表中のCで、( c )にあてはまる法令を答えよ。

奈良時代 東大寺の大仏(4)右の図は、年表中のDで、752年に完成した東大寺の大仏である。この大仏がつくられた目的は何か。簡単に説明せよ。

(5)年表中のEは、政権に深くかかわった僧が起こした事件である。この僧はだれか。

(6)このころの農民は、非常に苦しい生活を強いられた。そのようすを伝えるものに、山上憶良がよんだ何という和歌があるか。

【問題DL】奈良時代(1)聖武天皇と仏教

平城京と奈良時代

694年に持統天皇(じとうてんのう)が、日本で最初の大きな都である藤原京にうつりました。律令政治のしくみも整い、役所や役人の数が増えたためもっと大きな都が必要になります。

710年に元明天皇(げんめいてんのう)は、唐の長安(ちょうあん)にならって、現在の奈良市の西に平城京(へいじょうきょう)という新しい都をつくりました。このときから京都の平安京に都が移されるまでの約80年間を奈良時代といいます。

平城京

平城京は、東西約4㎞、南北約5㎞あり、広い道路で碁盤目(ごばんめ)に区切られているのが特徴です。当時の平城京の華やかなようすがうたわれています。
「あおによし 奈良の都は さく花の におうがごとく いまさかりなり」

平城京では、東市西市が開かれており、調や庸として農民が運んできた特産物や布などが売買されました。708年につくられた銅銭である和同開珎(わどうかいちん)という貨幣も使われています。ちなみに、日本で最初につくられた貨幣は富本銭(ふほんせん)で、7世紀後半の天武天皇の時代につくられています。

聖武天皇と仏教

聖武天皇が即位した8世紀ごろは、伝染病が広がり各地では飢饉(ききん)が続いていました。また、貴族や僧の勢力争いも盛んにおこっており、国土が荒廃していました。

聖武天皇は仏教を厚く信仰し、仏教の力で国を守ろうとして(鎮護国家思想)、国ごとに国分寺(こくぶんじ)や国分尼寺(こくぶんにじ)を建て、都には東大寺(とうだいじ)と大仏をつくりました。

東大寺の大仏

【東大寺の大仏】工事責任者には渡来人の子孫が任命された。

東大寺の大仏をつくるために、多くの農民とすぐれた技術を持つ渡来人が協力しました。752年に完成し、大仏開眼(だいぶつかいげん)の儀式には、インドや中国の僧など多くの人々が参加しました。

僧の行基(ぎょうき)は、各地をまわって仏教を説き、橋や用水路をつくるのなど土木工事を行い人々にしたわれました。聖武天皇の命令にも協力し、人や寄付を集めて大仏づくりにも手を貸します。

しかし、大仏完成後も世の中の不安はなくならず、大事業だったためかえって農民の暮らしは苦しくなってしまいました。

力を持った仏教勢力

奈良時代は、仏教の力が強くなりすぎた時代です。朝廷が仏教を厚く保護したため、政権に口を出す僧が現れるようになります。

称徳天皇(しょうとくてんのう)に信用された僧の道鏡(どうきょう)は、やがて太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)や法王(ほうおう)など、よくわからない高い地位をあたえられます。

  • 宇佐八幡宮神託事件(769年)
    道鏡が、宇佐八幡宮より「次の天皇は道鏡がよい」という神のお告げがあったとして天皇の地位を狙おうとした事件。

称徳天皇が亡くなると道鏡は左遷されますが、このように仏教勢力が非常に強大な力を持った時代でもあるのです。

奈良時代の農民

奈良時代の農民は、重い税に苦しんでいました。住居も縄文時代とあまり変わらない竪穴住居で、農民の中には、重い税や労役(ろうえき)から逃れるために、口分田を捨てて逃亡し、貴族や寺社の土地に逃げ込むものも現れ始めました。

当時の農民の苦しい生活のようすは、山上憶良がよんだ貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)に書かれています。

万葉集「貧窮問答歌」
かまどには 火気ふき立てず こしきには 蜘蛛の巣かきて 飯炊ぐ 事も忘わすれて 奴延鳥の のどよひをいおるに いとのきて 短き物を 端切ると 言へえるがごとく楚取る 里長が声は 寝屋処まで 来立ち呼よばひいぬ かくばかり 術なきものか 世間の道。

墾田永年私財法と荘園の発生

農民の逃亡などで荒れた土地が増え、さらに人口の増加により口分田が不足してきます。朝廷は農民に開墾(かいこん)をすすめますが、なかなか思うように田畑が広がりませんでした。

そしてついに、743年に新しく開墾した土地を永久に私有することを認める墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を出しました。貴族や寺社は、逃亡していた農民などを使って私有地を増やしたので、ここで公地公民制が崩れ始めます。この私有地はのちに荘園(しょうえん)と呼ばれるようになります。

「聖武天皇と仏教」基本問題 解答


(1)和同開珎

(2)平城京、エ

(3)墾田永年私財法

(4)仏教の力で国を守ろうとしたため。

(5)道鏡

(6)貧窮問答歌

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