古墳時代に大和政権が成立し、大陸からも多くの文化・技術が日本に入ってきました。今回は、その後の6世紀~7世紀前半の歴史を学習します。
「聖徳太子の政治」基本問題
Q:次の年表を見て、後の各問いに答えよ。
年代 | できごと |
538 593 604 607 618 |
渡来人が仏教を伝える。 聖徳太子が( a )の摂政となる。・・・・・・A 聖徳太子が( b )を定める。・・・・・・・・B 小野妹子が使者として隋に派遣される。・・・・・C 隋が滅ぶ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・D |
(1)年表中の( a )にあてはまる人物はだれか。
(2)年表中のAで、聖徳太子が定めた、有能な人材を取り立てる制度を何というか。
(3)年表中のBで、次の資料を見て、各問いに答えよ。
資料 ・一に曰く、和を以て貴しとなし、さからうことをなきを、宗とせよ。 ・二に曰く、あつく三宝を敬え。三宝とは( ア )・法・僧なり。 |
① 聖徳太子が定めた、このきまりである( b )を何というか。
② このきまりは、どのような人たちの心得を示したものか。
③ 資料中の( ア )にあてはまる語を書け。
(4)年表中のCについて、この使者の目的を簡単に説明せよ。
(5)年表中のDについて、この後中国を統一した国はどこか。
聖徳太子と蘇我氏
朝鮮半島では、6世紀になると新羅(シルラ・しらぎ)が勢力を強め、日本が支配していた加羅(から)を滅ぼしました。大和朝廷の朝鮮半島での力が弱まることになります。中国では、6世紀末に隋(ずい)が中国を統一します。
6世紀中ごろから、有力な豪族が勢力を争うようになり、渡来人を有効に活用した蘇我氏(そがし)が大和朝廷の権力をにぎります。593年には、聖徳太子(しょうとくたいし)が、女性である推古天皇(すいこてんのう)の摂政(せっしょう)となり、蘇我馬子(そがのうまこ)とともに政治を行います。
- 摂政(せっしょう)…天皇が幼いときや、女性の天皇のときに、天皇を助けて政治を行う役職。
聖徳太子は、冠位十二階や十七条の憲法などを制定し、天皇を中心とする国づくりを目指します。
冠位十二階
603年、冠(かんむり)の色などで朝廷での地位を示す冠位十二階(かんいじゅうにかい)という制度を定めます。
冠位十二階の特徴は、家柄(いえがら)にとらわれず、実績や才能がある人物を朝廷の役人に取り立てるということです。
十七条の憲法
604年、仏教の教えなどを取り入れた十七条の憲法を定めます。豪族が仏教を敬い、争いをしないで天皇の政治を助けるように、その心得を示しています。
・二に曰く、あつく三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり。
・三に曰く、詔を承けては必ず謹め。
・四に曰く、国の役人は、礼を以て本とせよ。
「みんな仲良く、仏教を信仰し、天皇の命令を聞いて、礼儀正しくしなさい」ということが書いてあります。
遣隋使
聖徳太子は、中国の隋と国交を開いて、中国の新しい政治体制や文化を取り入れようとし、607年に小野妹子(おののいもこ)らを遣隋使(けんずいし)として派遣します。
対等な国交を開こうとしたことが、今までの使いとの違いです。
小野妹子が隋の皇帝である煬帝(ようだい)に渡した手紙です。
飛鳥文化
仏教が538年に百済から伝わり、豪族の間に広まります。朝廷のあった飛鳥(あすか)を中心に、日本で最初の仏教文化がおこります。
遣隋使らによって、中国の進んだ文化が伝えられたので、中国だけでなく、インドやペルシャ、ギリシャなどの文化の影響も見られます。
●飛鳥文化で覚えておくべき寺院や仏像など
- 法隆寺(ほうりゅうじ)
聖徳太子が建てた世界最古の木造建築物。ユネスコの世界文化遺産に登録。 - 四天王寺(してんのうじ)
聖徳太子が現在の大阪市に建てた仏教寺院。 - 飛鳥寺(あすかでら)
蘇我馬子が建てた仏教寺院。 - 釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)
法隆寺にある北魏様式の仏像。 - 百済観音像(くだらかんのうぞう)
法隆寺にある南朝様式の仏像。 - 玉虫厨子(たまむじのずし)
法隆寺にある仏像をいれる宮殿を載せた工芸品。
「聖徳太子の政治」基本問題 解答
A
(1)推古天皇
推古天皇は、聖徳太子のおばにあたります。
(2)冠位十二階
家柄にとらわれず、実績や才能によって役人を登用しました。
(3)➀十七条の憲法 ➁役人 ③仏
仏教を信仰し、争いをせず仲良くしましょうという役人の心得です。
(4)中国と対等な国交を開き、進んだ政治制度や文化を取り入れること。
対等な関係で交易をしましょうということが、今までの使いの目的と大きく異なります。
(5)唐
隋は581年~618年までの、非常に短い間、中国を統一しました
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